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1965年(昭和40年) 弟5歳 1号機
 (写真は、体が少し大きくなり使わなくな
  った後で1〜2年後記録用に写したもの
  です。車体から体がはみだしているの
  はそのせいです。)

1670年(昭和45年) 弟10歳 4号機
 (主に学校で使用)

1973年(昭和48年) 弟13歳 5号機
 (電動リフト・電動リクライニング
  電動足かけエレベーティング)

1978年(昭和53年) テスト風景

 

1978年(昭和53年)テスト風景

 


電動車イスの開発が支えた可能性を信じる心

西平 哲也


不便なもの車イス

 昭和36年、末に弟が生まれました。幼稚園の頃まで、歩くのが少し遅い以外普通の子供だと誰もが思っていました。いくつかの病院をまわった後、東大病院で弟が進行性の筋ジストロフィーという病気であることがわかりました。
 ある日病院から帰ってきた父と母は、弟が眠った後兄弟を呼びました。そして最後に「20年近い時間はまだ残されている。それだけの時間があれば医学も進むはずだから、それまで家族としてできることはやっていこう。きっと治療法も発見されるはずだ」と話し、それ以来ほとんどこの話題に触れることはありませんでした。
 しかしこのときを境に弟を中心とした生活が始まっていたと思います。父は「兄弟は平等であるべきだから、弟がおとなになっても生活していける方法を皆で考えておかなければいけない。お前たちが勉強したければ学校はどこでも行かせてやる。だからその知識は弟のために生かさなければいけない。それ以外残せる財産などないと思え」とよく言っていました。
 小学校3年生の頃、弟は歩きながらよく倒れるようになり、危険を感じて車イスを使うようになりました。その時になってはじめて車イスがこんなに不便なものだとわかりました。段差はだめ、狭い入り口もだめ。一日中誰かが付き添っていなければ学校に行くこともむつかしくなってしまいました。
 当時家の近くに養護学校がなく、車で5分くらいに所にある普通小学校に通っていたのですが、障害が重くなってくるにつれ担任の先生の負担が重すぎるという話が出され、一時は通学ができなくなりそうな時もありました。
 さいわいひきうけてくださるという先生に恵まれたことと、家族が学校側に負担をかけない最大限の努力をするということで再び通学を許されました。クラスの皆も教室移動の時などよく世話をそてくれました。


リハビリだけの生活でなく

 寒くなると手や指の力が弱くなる為、車イスに乗ったまま普通トイレでの小用が出来ず、ズボンをぬらすことが何度かありました。父は車イスに座ったままトイレで立って小用が出来ればということで、いろいろ車イスの改造をしていました。そして今思えばビックリ箱のような車イスが出来たのでした。座席に座ったまま背もたれにもたれかかるようにしてレバーを押すと、スプリングの力でお尻をもちあげて立たせるというものでした。
元に戻す時は、はずみをつけて座れば再び座席の状態でロックできるようになっていました。
 昭和45年くらいから車イスを自力で動かすことも困難になり、家でもほとんど座ったままでいることが多くなりました。リハビリの為といいながら、トイレまで普通に歩けば10秒のところを5分以上もかけていざって行かせていました。母は食事の世話や、夜は30分おきくらいの寝返りの世話でかなりまいっていたようです。当時お医者さんはリハビリテーションで機能の維持、回復に重点をおいていましたので、自動化などもってのほかで、トイレでもなんでも動くことすべてを訓練のしたほうがいいというようなことを言っていたと思います。
 しかしこの意見には多少の抵抗がありました。私たち健康な者は体にいいから毎日鍛錬を主体に生活しているのだろうか。答えは「ノー」だと思います。多くの人々は移動に電車や自転車などの交通機関を使っているはずです。体にいいからと走って通勤する人はほとんどいないと思います。その運動不足を補うために一部の人がジョギングやスポーツをやっているにすぎません。なぜ障害を持った人は1年中、生活そのものを訓練に費やさなければいけないのかという思いでした。
 たとえば楽しくテレビをみていたとしても、トイレに行く10分前には行動をはじめなくては間に合わないのです。なぜそんなに時間をかけて移動する必要があるのかという思いでした。一日は24時間あるのだから、リハビリの時間を一日何回何分やるときめてそれを実行すればそれで充分だと思いました。


リフト付電動車イス製作

 機械に頼りすぎてはいけないが、やることさえ十分やれば生活のプラスになってもけっしてマイナスではないはずだという自分たちなりの結論から、私たち電動車イスの開発がはじまりました。
 最初は自転車やオートバイの解体屋さんをまわり、寄せ集めの材料で作りました。家の中で使うという前提で、畳の部屋で使えること、飯台のような低いテーブルやコタツが使えること、勉強机や物を取るために高い位置にも座席が上がること、こわりがきくこと、という条件をすべて満足できるものをということで製作をはじめました。
 こうして出来上がったのがリフト付き電動車イスでした。まったく原始的なメカニズムの電動車イスでしたが、これで生活がガラリと変わりました。極端な言い方をすれば重度障害者が家庭にいなくなったのです。家の中では畳の部屋、机、トイレ(小用だけ)などへの移動がすべて自力でできるようになりました。そしてテレビのチャンネルはすべて弟のものになってしまいました。


自立を助ける工夫こそ

 これは昭和45年のことで37年以上も前のことです。しかし現在でも電動車イスは外出用だけのものと考えている人が多いのは残念なことです。現在開発されているリフト付き電動車イスは二畳の広さがあれば十分活動ができるほど高性能になっています。電子技術の進歩によって走行は1本のコントロールパネルで前後左右、回転、スピード調節と思いのままです。乗り降り、家具への対応もボタンスイッチにより、座席を床上0cmから60cmまで変えられるようになりました。家が狭いからこそ座席の上下が必要ということになると思います。
 もし電動車イスが家の中で使えたら、それに乗っている間は家族の手助けはほとんどいりません。ほしいものがあれば置いてある所まで自分で移動し、自分で取ってくることができるのです。自分のまわりにすべての物を置く必要はありません。机、本棚、家具などをおおいに利用すればいいのです。
 機械化すると人の交流が減るという人もいますが、そうでしょうか。
 ボランティアは与える喜びであるともいえると思いますが、自分で出来る楽しさはそれ以上であることを察することが大切です。障害者だって介助を受けるばかりでなく、誰かの役に立ちたい、何かの社会のために生きたいと思っています。機械の手助けにやりいくらかでも自由になった体にチャレンジする心が生まれるとしたら、それはすばらしいことではないでしょうか。
 また介助者も付きっきりの介助から解放され、もっとふれあいを大切にしたつながりができてくると私は思います。機械などの利用は介助者の手ぬきでも健常者との交流をなくすものでもないはずです。生活の自立についてどう工夫するか、一緒に考えてほしいと思います。電話の受話器が重たければゴムなどでうえからつるしてみる。スイッチに手が届かなければ棒を使ってみる。工夫の心でながめれば不自由をカバーする方法もみえてくると思います。
 それから福祉器具は高くて金がかかりすぎるともいわれますが、情報を集めて給付制度をできるだけ利用するか、市販のものを自分流に使ってみるとか出来るわけです。
 私はボランティアの心のふれあいは自立への工夫の中にあると思っています。障害者が障害をのりこえ有意義な人生を見出すために何が必要なのか、それを昼も夜もたえずつきつめているのは家族でありボランティアであり、そして障害者本人なのです。
 電動車イスでも思いやりの心がなければほんとうによいものは出来ないと思います。


可能性を信じる心をだいて

 リフト付電動車イスを使うことにより弟が以下に変わっていったかと聞かれますが、弟の生活は前とほとんどかわることがありませんでした。
 私たちはお医者様に筋ジスとしらされたとき、筋ジスがいかに進行していくかを調べました。そして不幸にして治療法の発見が遅れたとき、どういう状況になるかも知りました。私たちはその時を想定し、何通りもの方法を考えておきました。病気が弟の体をむしばみ機能を低下させたとき私たちはそれを補うメカニズムを車イスに与えたのです。弟も家族に甘えることなく、自分ができることはすべて自分でやりとおしました。
 趣味として油絵もやっていましが、その時絵筆を持った手を動かせる範囲は約5cmくらいでした。そこで電動車イスのリフトや前後左右の動きを利用し、キャンパスの隅々まで筆を運んでいたのです。そこにはまねの出来ない独特のタッチが生まれていました。10号ほどの絵を仕上げるのに3ヶ月以上もかかっていたと思います。
 もしリフト付き電動車イスを使うことにより弟が変わったことがあるとすれば、それは自分の可能性を信じられるようになったことだと思います。たとえ体が多少きかなくなっても、それを補う手段があることを信じられたことだと思います。弟が病院に入院する前に書いた図面が残っています。それには自分の変形した体を矯正する方法とその要望が書かれていました。

弟は昭和54年19歳で永眠しました。

 弟が書いた絵


1975年6月完成
(キャンパスの大きさは40cm×40cmです)