アローワンのミッション

電動車いすを作るために生まれてきた男

「西平さんって、こうやって電動車いすを作るために生まれてきたみたいですね」最近、知人からそう言われました。
少々おおげさに聞こえるかもしれませんが、私自身、自分の人生を振り返ってほんとうにそうだなって思います。そしてちょっと笑ってしまいます。
振り返ってみれば、我が人生、まさに「電動車いす一筋」なんですよね。

父とニ人三脚の開発

私が電動車いすと関わるようになったのは、9歳年下の弟が筋ジストロフィーと診断されたときからでした。
その時、私の父は家族を前にこう言いました。 「守儀(もりよし・私の弟)のこれからの人生を家族全員で支えていこう。兄弟は平等だから行きたい学校にはどこでも行かせてやる。ただ、その知識は弟のために生かしてほしい。その知識も財産のひとつだ」

当時鉄工所を経営していた父は、必要な物は、道具でもちょっとした機械でも何でも自分で考え、研究しながら作ってしまうような人でした。
私は、そういう父が誇らしく、あこがれの存在でもありました。

そういう父ですから、筋ジスの自分の息子の生活を支える道具も自分でこしらえようとしたのはすごく当然のことです。

私が15歳のとき、父と私の二人三脚で、日本でそれまでほとんど例のない電動車いすの研究を始めたのです。 1965年の第1号機に始まって、弟が19歳で亡くなるまで、体の成長と病気の進行にあわせて、改良を加えながら何台も作りました。
父の言葉どおり、大学は私の望んだ機械工学科に行かせてもらうことができました。卒業研究では当時前例のなかった、階段を昇降できる電動車いすを一から開発しました。

弟は、父と私が作った車いすのおかげで、亡くなる直前まで自分のことは自分でできる自立した生活をおくることができました。 手を動かすのがかなり不自由になってからも、車いすを上手く利用して、趣味の油絵もキャンバスに向かって描いていました。

弟が1979年に亡くなって、父と私の車いす研究開発も同時に終了しました。もともと商売ではなく、弟のための車いす開発だったので、弟なき後、私たちには車いすを作る理由がなくなりました。

仕事として、電動車いす作り

そんなところ、弟がお世話になっていた理学療法士の先生に言われました。
「西平さん、あなたとお父様が弟さんといっしょに作ってこられたこの車いす。これは弟さんの自立を助けただけじゃないよ。 ベッドで寝たきりになってあきらめている人が起き上がれるかもしれない。家に閉じこもっていた人が、外に出られるようになるかもしれない、すごい可能性がある車いすなんですよ。 この車いすを困っている人のために普及させるべきではないですか?そんなやめるなんて言わずに・・・」

当時の私は、弟以外のことはほとんど眼中になかったのです。でもこの理学療法士の先生の一言で、背中を押されました。
私は今まで弟のために身につけてきた技術と経験、そして神様からいただいたこの才能を世の中の困っている人のために役立てよう! 電動車いす作りを、ようやく自分の仕事としてやっていく決心がついたのです。

以来、困っている障がい者のためならと、無我夢中でいろんな車いすを開発し、製作してきました。そして多くの障がい者の方のご相談に、私なりに精一杯応じてきました。

私が作った車いすは、困っている人に絶対役に立つという自信と自負がありました。
実際に多くの障がい者の方やそのご家族の方から喜んでいただけました。
でも中には、相手からは警戒されて電動車いすのメリットを理解してもらえないことも多く、ずいぶん残念な思いもしてきました。(今でも営業もPRも下手くそです)

自分で会社を起こしたり、出会いがあって、志を同じくする仲間と車いす製作の会社を共同経営したりもしましたが、電動車いすの市場はすごく小さいので、経済的な面ではいつも困難の連続でした。 それがために私の家族に迷惑をかけてしまったこともありました。それでもやりがいのあるこの仕事を辞めようとは思いませんでした。

経営破たんと挫折

そんな私にもやがて転機が訪れ、大きな挫折を味わうことになるのです。

その昔、電動車いすを必要としている1人でも多くの人に届けたいという思いから、量産体制を整備した会社を従業員を雇いながら経営していました。 量産すれば、安くていい車いすを多くの人に届けられる。そのために借金をして最新鋭の機械も導入しました。、腕利きの技術者や職人も雇いました。

ところが今から15年ほど前、作った車いすは思うようには売れず、億を超える負債を抱えて会社は倒産。
そうして従業員や取引先には多大な迷惑をかけてしまいました。 このことは今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。

おれはやっぱり経営には向いていないんだ。 お客さんため、社員のため、家族のために必死になって働いてきたのに・・・。 その時の私は、体の疲労と心労が重なり、もう身も心もボロボロでした。

そして楽天的な私も、このときばかりはさすがに 「もう、車いすの世界からは足を洗ってしまおう。機械工学の技術だけはあるから、どっかの工場で雇ってもらって、残りの人生はひっそり暮らしていこう。 車いすを作る人間は俺以外にいくらでもいる」そう考えていました。

その時、なぜか弟、守儀が悲しんでいる顔が目に浮かびました。
「ごめん。兄ちゃんはもう車いすはやめるよ・・・」
そうつぶやくと、目から涙があふれてきました。

オーダーメイドの電動車いす製作~アローワンで再出発

ところが、神様は私の車いす作りを辞めさせてはくれませんでした。
もう辞めようと思っていたところへ、オーダーメイドの思わぬ注文が来たのです。

「私、車いすでもう一度船旅がしたいの。狭い船の中を自由に移動できる電動車いすなんて西平さんにしかできないもの。お願い、何とか車いすを作って私の望みをかなえて!」

そうして私は電動車いす製作の世界に、再び引き戻されたのです。

この車いすの開発には苦労しましたが、従来よりも車幅を小さく、小回りが利く電動車いすを無事納車。お客様はそのオーダーメイドの車いすをとてもよろこんでくださいました。 そして私の中に「人様にお役に立てる喜び」が再びよみがえってきました。 でも、だからといって再び電動車いすの製作を継続的に続けていく、自信もアイディアもありませんでした。

船旅のお客さんに納車を終えた後も、車いすの修理やメンテナンスの仕事をしながらも、私はまだ自分が進むべき道が定まらず、悶々と日々を過ごしていました。

ところがそんなある時、脳脊髄液減少症という難病をかかえておられる女性から、走行の振動を極力抑えた電動車いすの製作の依頼が私のところに舞い込んできたのです。 この脳脊髄液減少症という病気は、生活をする上でとてもやっかいで、ちょっとした振動にも脳が耐えられないので、既成の車いすが使えずに外出できないつらい日々を強いられていたのです。

それで脳の揺れを抑えて、きわめて振動が少ない、彼女にでも乗ることのできる電動車いすを作って欲しい、そういう相談でした。
この話を聞いたとき、振動を抑える技術的なアイディアはすでに私の中にあったので、外出の希望をかなえてあげる自信はありました。 しかし脳の揺れを抑えながら、高級乗用車のように振動なく段差もスムースに走行する車いすなど世界的にも前例がなく、試行錯誤のテストと時間が必要でした。
そしてなによりその開発費をどう工面するかが一番の課題でした。

「電動車いすに乗って外に出かけたい」というお客さんの願いはかなえてあげたいのですが、多額の開発費をすべてそのお客さん一人に負担していただくわけにもいきません。

資金さえあれば・・・。そう考えるとなんとも情けなく、自分の無力さを思い知らされるのでした。
「ごめんなさい、そんな車いすは僕には作れません」 そうお客さんには返事をしました。

ところが、お客さんは、あきらめてはくれませんでした。
無理やり事務担当のものから私の銀行口座を聞きだし、いきなり100万円を振り込んできたのです。
これには私も驚きました。
「わかりました、そこまで考えておられるなら、何とかしましょう」

そうは言ったものの、正直100万円では開発資金としては不足です。
その時です。なぜか弟が昔、私と父にあてて書いた自分が乗る電動車いすの「要望書」が思い浮かんだのです。
彼は、体がだんだんと自由が利かなくなっても、それを補う手段があることを、父と私が何とかしてくれるいことを最後まで信じていたのです。 弟は「可能性」を最後の最後まで決してあきらめませんでした。

そのことに気づき、私は目がさめました。
「守儀、ありがとう!」弟への感謝の気持ちとともに、前人未到の電動車いすへの開発の意欲が再びよみがえってきました。

そうしたら、また不思議なことが起こったのです。

一挙に4台も、オーダーメイドの車いすの製作依頼が舞い込んできたのです。
その方は15年前に私が1台電動車いすを製作した娘さんでした。話を聞くと15年の間、ほとんど故障もなく毎日使い続けていたそうです。
それでその親御さんは、西平に一生まかせられる電動車いすを作ってもらいたいと日本中「西平はどこだ」と探しておられたのです。
私は車いすの業界の知り合いから「あんたを探している人がいるよ」と聞いてそのことを知りました。

15年ぶりの再会もびっくりですが、生活のさまざまなところで使いたいと4台もいっぺんに注文くださったのにも驚きです。
そして突破口を見出せずにいた私にとってこの注文は、まさに救いの手でした。本当にありがたいことと、今でも感謝しています。
これで課題だった資金の工面はメドがつき、「振動を押さえた電動車いす」の開発に着手することができたのです。

この車いすには「オメガ」と命名しました。オメガというのはα(アルファ)から始まるギリシャ文字で最後の文字です。これ以上はないという意味を込めて付けました。
ところがオメガの開発は、一筋縄にはいきませんでした。(ある程度困難は予想してましたけど…)
結局2年の歳月をかけて、初代オメガ、オメガ2、そしてオメガ3と3タイプ開発して、ようやく納得できるものが完成しました。
このオメガ3は、私の車いす製作人生の中でも、感慨深いものです。今でも納車の時のユーザーさんの笑顔が脳裏に焼きついています。

「西平さんが車いすを作ってくれなかったら、私は一生外出できない」と言っておられましたが、
「今は外出できるようになって、ほんとうに人生が変わりました」と連絡がありました。こういうお言葉をいただくと、本当にこの仕事をやっていてよかったと思います。

そしてこの一連の出来事で、私は悟りました。
レギュラー仕様の、普通の電動車いすに乗れない人は、少なからずいる。
そういう人たちは、その人の体と障がいに合わせたオーダーメイドの電動車いすを必要としている。
規格の車いすに乗れない人、他ではできないと断られた人、そういう人も、動けるように、自由にしてくれる車いすを死ぬまで作り続ける。
これこそが弟が、そして神様が自分に与えてくれた使命なんだ!

こうしてオーダーメイドの電動車いす製作会社、有限会社アローワンは出発したのです。

私が、心がけていること

私が電動車いすの製作を始めて40年以上たちました。
その間に、電動車いすに応用できる技術やパーツは驚くほどに進歩をとげました。
そして、私が作っている電動車いすも、格段に進化しました。

でも、忘れてはならないのは、すべては使う人を支えるためにあるということです。
私の車いすでいえば、どんなすばらしい技術も、ユーザーさんが自由を得て、自立した生活へと変えるもの、普段の生活に役立たないと意味がありません。

そして、技術よりも大事なことがあります。 それを私は10代のころ、弟から教わりました。

そして、ユーザーの方や、私の電動車いすの可能性を信じてくれて、相談をよせていただいた方から、今も学び続けています。

それは、車いすを使う人の悩みや、要望、クレームに耳を傾ける姿勢です。
これを忘れては、電動車いすは「使える」「役立つ」道具にはなりません。

使えなければ、どんなハイテクの車いすも、ただの製作者の自己満足でしかありません。(技術的課題にチャレンジし、達成することは技術者のよろこびではありますが)

お一人お一人のユーザーさんのおっしゃることだけでなく、ご本人のご様子や身体状態、時にはご自宅やその周りの生活環境なども拝見させていただきます。

そこから、その方にどのような機能や構造、車いすの車体の大きさなどを想像し、できる限りご要望がかなえられるように設計、製作していきます。

他の車いす屋さんではやらないようなこと、できないようなこともやります。
例えば、できるだけ疲れないようラクに乗れるように、シートをきめ細かく徹底してフィッティングします。
あるいは、ユーザーさんが残存機能を使って無理なく操作ができるようなコントローラーのカスタマイズ(改造)や微調整などもやります。
どれも忍耐力と根気を必要とする仕事ですが、ここを手抜きしては使える車いすにはならないことを私は誰よりも自覚しています。

今、アローワンのスタッフもだいぶ育ってきました。
だから最近はしょっちゅう旅に出ています。「旅」といっても観光旅行じゃないですよ。
愛車のハイエースにデモ車を積んで、ご相談を受けた方や、既存のユーザーさんのところをまわる旅です。

できるだけ多くのお客さんのところを、1度に効率よく回るようにするため、時には1週間位の旅になることもあります。 (私の体が空かないため、今のところ京都周辺と東名、名神、中央道周辺が中心で、それ以外のところは行けていません。ごめんなさい!)

ときどき高速道路のサービスエリアで駐車して、車中泊したりもします。 食事もファミレスかコンビニ弁当で済ませることが多いです。ケチでそんなことをしてるんじゃないんですよ。(スタッフの近藤には、よくご当地のグルメでも食べたらと笑われますが…)
時間とお金を節約してでも、車いすのことで困っておられる方や、ユーザーさんにできるだけお会いしたと考えているからです。

実際に車いすを組み立てたり、設計図面を書いたりといった仕事はそれぞれの専門スタッフがやってくれますが、お客さんの要望や悩みごとの解決法をどう技術的に実現させるか、 そのアイディアを生み出すのはお客さんの悩みや問題を肌で感じるところから始まります。 そして生まれてきたアイディアを技術者が分かる言葉に翻訳して技術者に伝えて実際のオーダーメイドの製品になるのです。 この仕事だけは、今のところアローワンでは私しかできません。(早く後継者を育てたいと考えてはいますが)

正直、今までお金には苦労してきたので、少しはラクしたいと思います。 でも、ちょっとでも経費は節約して、その分新しい車いすの開発にお金をまわしたいと思っています。 それに私は三度のメシより車いすのアイディを考えている方が好きです。

電動車いすを作り続けて45年。私ももう今年で60歳になりました。
でも体か続く限りこのスタイルで、できるだけたくさんの方にお役に立ちたいと思っています。
そのためにも、ちょっとメタボになったこの体をなんとかせにゃなりませんね(笑)。

私はお客さんと向き合い、悩みや要望をお伺いしながら、45年間で2000人以上のユーザーさんのために、電動車いすを作ってきました。
そして今日も車いすについての悩みや、電動車いすに可能性を託してみたいというご相談に駆け回っています。

日々障がい者の悩みに接している私は、障がい者の方やご家族の「何とかしたい」というお気持ちが、誰よりも理解できます。

そして私には、そういう人たちを救ってさしあげる可能性のある、技術と知恵と経験があります。
私の思いに共感し、私の使命にいっしょになって応援してくれる仲間もいます。

だから今、私は確信をもって言うことが出来るのです。

レギュラー仕様の車いすが合わない、使えない方のために
その人に合ったその人の人生を支えるオーダーメイドの車いすを作るために、自分は生まれてきたのだ。

そしてこの仕事ができるのは、私しかいない、と。

私がめざす車いすは、単なる移動するための道具ではありません。
あなたに自由を与えてくれる、あなたがあなたらしく生きるため、
社会にはばたくための「魔法の翼」です。

電動車いすなんて、たかが道具です。

でも、その車いすで動ける自由を得て、
もう無理だとあきらめていた家事や仕事が出来るようになり、
人生が変えられた人、救われた人、自分らしい人生を再びスタートさせた人を、私は何人も見てきました。
救われるのはご本人だけではありません。多くの場合、ご家族の方も四六時中の介助から開放されます。

人生が変えられたのは、ご本人も、ご家族の方も可能性をあきらめなかったからです。
「ぜったい変えることができる」そう信じ、信じ続けたからです。

障がいを持った方々が、車いすという「翼」を使って再び輝きを取り戻し、
まわりに勇気と希望を与える存在に変えられていく。
あなたにもそうあってほしい。心から、ほんとうに心から願っています。
障がいを持ちながらも、19年の短い生涯を自分らしく生き抜いた私の弟がそうであったように。

追伸
もしあなたが私が作る車いすに1%でも「可能性」を感じていただけるなら、
どうか遠慮せず、勇気をもって私のところに電話かメールで連絡ください。
もちろん、ご家族の方に頼んでいただいても結構です。
私の車いすで自由を取り戻した方は、すべて1本の電話やメールから始まりました。
心配はいりません。安心してください。
いっしょに可能性の扉を開く方法を考えましょう。

 

お問い合わせは、電話・FAXでもどうぞ!
電話:0774-25-6614(平日 9:00~18:00 土日祝日は休業)
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